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『地域で活躍する演出家シリーズ』斎藤歩
掲載に向けて
斎藤歩さんから「原稿を書かなくちゃならないんだけど、ちょっと難しいんだわ。インタビュー形式にして、清水がまとめてくれない?」と、言われ、2025年4月末から、がんセンターに2回、退院してから自宅に3回ほど訪ねてゆき、歩さんと話しました。その後、インタビューの内容を私が整え、歩さんがまとめている途中、6月11日に息を引き取りました。文体を引き継ぎ、原稿が完成しました。斎藤歩が北海道で活動した80年代以降の演劇事情の断片を感じていただけたら幸いです。
北海道演劇財団芸術監督 清水友陽

斎藤 歩(札幌座)
釧路市生まれ。北海道大学演劇研究会を経て、札幌で劇団を結成し俳優・劇作家・演出家として1987年より活動を続ける。1996年には札幌市文化奨励賞受賞。2000年文化庁芸術祭優秀賞を受賞。2000年からは東京に活動の場を移し、俳優として映画・舞台・テレビドラマなどに出演する一方、北海道でも劇作・演出・出演もしながら次世代演劇人の育成も続けてきた。2016年札幌に拠点を戻し、北海道演劇財団の芸術監督に就任。北海道での演劇の仕事を主軸に置きつつ、東京での俳優業も継続し、映像俳優としても活動を続けている。2020年7月より、北海道演劇財団の理事長。2021年に癌を患うも、抗がん剤治療を続けながら舞台に立ち続ける。2023年札幌芸術賞を受賞。

清水友陽
演出家・劇作家。札幌で活動する劇団清水企画代表。
2012年より、札幌座のディレクターに就任。創作活動以外にも、子どもたちを対象にした表現ワークショップや、高校・大学で表現の授業の非常勤講師を務める。2022年より、北海道演劇財団専務理事・芸術監督。
清水
歩さんが演出家協会から頼まれて、「地域で活躍する演出家」ということで原稿を書かなきゃならなかったんですけど、ちょっと体調が日替わりで良かったり悪かったりで…
歩
すいません。ちょっとまとまった原稿を書くことが難しそうで、ちょうど、北海道演劇財団の芸術監督を私の次に引き受けてくれた清水に、色々喋っておくことも必要だったので、インタビューと言う形で私の書かなきゃならないあれこれを、引き出してもらいつつ、清水にも喋るという形で、清水にまとめてもらおうかと
清水
僕もちょうど、こうしたことを歩さんから聞いておきたかったので、
歩
すいませんね。じゃぁ…何から喋ればいいかなぁ?
清水
歩さんが演劇を始めた頃の札幌は、どんな状況だったのか?まずはそこから聞かせていただけますか?どんな環境からこんな人が現れて来たのかを探ってみようかと…。まず、僕と歩さんは、10歳年が離れていて、かなり札幌の環境が違っていたんじゃないかと思うので。歩さんが演劇を始めたのは、北大演研だと聞いています。1980年代ですね
歩
20歳の時、1984年だった
清水
その頃の札幌の演劇の状況ってどんな感じだったんですか?
80年代の札幌の状況
歩
もともと演劇に興味があったわけじゃないから、当時の札幌の演劇の状況は正確には分からないんだけど
清水
演劇に興味がなかったんですか?
歩
無かったねえ、全く
清水
そうだったんですね
歩
テントなのよ。俺の演劇の始まりは
清水
アングラですね
歩
そう呼ばれるよね
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当時の札幌には、東京の小劇場演劇の影響も受けて、札幌にも独自の企画を持つ小劇場空間がいくつも生まれていた。4プラホール(1977年)、文芸センター(1977年)、めるへん館(1978年)、駅裏8号倉庫(1981年)など。そんな場所で、音楽や舞踏や映画、それに演劇と、それぞれの空間を生かして、作品が創作された。その頃は、リアリズム演劇をベースにした劇団が精力的に活動していて、反動としてアングラの影響を受けた劇団もいくつもあったようだ
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歩
当時の北大演研って北大当局と対立してて、学内にテントを張って演劇をやってた。

87年頃の北大演研青テント
演劇が面白そうで始めたというよりは、大学当局ともめ事を繰り返したり、テント演劇の醍醐味みたいなものに興味を持ったり…まずはそこが演劇の入口で、やがて、そこで目の当たりにした演劇たちが、当時の北大演研の上演テキストで声高に叫ばれていた文脈だったり、唐十郎さんや寺山修司さんだったり、北方舞踏派の身体の構築方法みたいなものに興味を持ったり、そっちが入口だった。
ところが、札幌の演劇全体を見渡すと、小劇場ブームで、もっとポップな演劇が盛んになっていたんじゃないかと思うよ。その後、僕は大学を辞めて(1986年)、魴鮄舎という劇団を旗揚げ(1987年)した。旗揚げしたって言っても、大学構内にテントを張ることもできなかったから、札幌市内に倉庫を借りて上演した。その頃には、駅裏8号倉庫がなくなっていて、ほとんどの劇団が1986年にオープンした本多小劇場か文芸センター(1977年)で公演していたんだと思う。魴鮄舎は、別の倉庫を独自に見つけて、倉庫の中でバイクやトラックを走らせたり、火を燃やしたりと、劇場ではできないことをやっていた。
札幌本多小劇場の役割
一方で、札幌にはね、札幌本多小劇場(1986年)がオープンして、80年代の終わり頃には、札幌の小劇場の中心になっていた。東京の芝居を招聘したり、プロデュース公演を企画したり、養成機関として本多スタジオを創ったり、だから、札幌の小劇場演劇に与えたインパクトは大きかったと思うよ。そこから、同年代の鈴井貴之さんが率いるOOPARTS(オーパーツ)や、増澤望くん率いるP-PROJECT(ピープロジェクト)などが評価されて集客数も1,000名~2,000名ぐらいまでいったし。この劇場で上演された芝居の数は、群を抜いて多かった。
でもさ、僕らは倉庫を一カ月借りて、そこで毎日稽古して、年に2本ぐらい公演してたわけ。集客数も1作品2,000名近くまで伸びたんじゃないかなぁ。
清水
その頃は、演劇で食えていたんですか?
歩
むりむり。何とかずるく立ち回っていれば、生きて行けて、演劇も札幌で続けて行けるんじゃないかって、どこかで思ってたんじゃないかなぁ。変なバイト色々やってたし。バブルの残り香があちこちに転がってたし
清水
僕はほら、あれですから「就職氷河期」世代のど真ん中
歩
そうか、あれか
清水
歩さんは「どーにかなる」と思ってた。僕は「どーにもならん」と思ってた。だって、拓銀破綻(1997年)ですよ
歩
清水はあの後に世に出ちゃったのね
清水
歩さんが一人で「どーにかなる」って思ってたって、演劇でしかも札幌で実際に食べて行けるわけがないわけですけど
歩
そうなんだよね。そんなころ、俺を演劇で食わせようって人たちが、札幌に現れ始めたのね
清水
演劇財団がここで出来るんですか?
札幌演劇鑑賞会
歩
演劇財団ができる前に、札幌の演劇にとって、インパクトがあった状況があるのね。当時、札幌演劇鑑賞会(札幌えんかん)の会員が増えて、独特の力を持っていたんじゃないかと思うんだよね。だって、北海道の他の町の鑑賞会の力を頼らずに、札幌だけで東京の小劇場演劇を札幌に呼ぶことができるようになってたりしてたから。会員数も6,000名。絶対に東京以外ではやらないと言われていた第七病棟の「ビニールの城」を札幌だけでやったんだよ。俺さ、大学辞めて魴鮄舎を旗揚げする前、1987年にこの「ビニールの城」の仕込みと照明を手伝ってるんだよね。観たくても観られないお客がいっぱいいる芝居を、毎日観ることができたしさ。石橋蓮司さんとか緑魔子さんとか、当時神様みたいに思ってた役者さんの芝居作りを間近に観ることができた。そんな折に、道外から劇団を呼ぶだけでなく、地元の劇団を中心に、本多小劇場を使って札幌演劇祭(1982年9月第一回開催)を始めたりもしてさ。それを仕掛けたのが、当時のえんかんの理事長?だったか、事務局長?だったか、飯塚優子さんと、平田修二さん。1990年頃には、えんかんと札幌の地場演劇が繋がり始めて。俺は第三回札幌演劇祭(1990年10月)に魴鮄舎で参加していてね。札幌の上の世代の人たちと仕事をするようになっていったのがこの時期だったかな

ほうぼう舎(1992年)
清水
当時えんかんをやっていた平田さんが、演劇財団を作って、歩さんを札幌で、演劇で食わせようとしてたってことですか?
小劇場遊戯祭
歩
その前に、松崎霜樹さんがいるんだよ
清水
あ、ここで霜樹さんか
歩
札幌本多小劇場が、1993年に撤退してオーナーが引き取ってルネッサンス・マリア・テアトロと名前を変えた。その頃、俺らより10歳上の世代の松崎霜樹さんが旗を振って「さっぽろ小劇場遊戯祭」ってものをやることになった。当初は潰れそうな札幌の小劇場を助けようとしてたみたいなんだけど、札幌の俳優の階層を作ろうという試みだって言ってたと思う。1993年8月に霜樹さんとA.G.S(アーティスツ・ギルド・オブ・サッポロ)を結成して「ドレッサー」創ったんだよね。札幌で、唯一のプロフェッショナルの集団を作ろうとしていた。A.G.Sっていう集団をベースに札幌で芝居を創って、それで道内ツアーを毎年回したり、東京にも持っていくようになったんだわ。
清水
A.G.Sの結成が1993年で、演劇財団が1996年ということは、A.G.Sの方が3年早いんだ
歩
そうなんだよ。だからこの3年間で「札幌で演劇で食えるかも」っていうよりは、「喰わなきゃ」って思い始めたんじゃないか
北海道演劇財団設立
歩
演劇財団設立の記者会見みたいなので言っていたのは、とにかく人材育成だったかな。専属の創造集団TPS(シアター・プロジェクト・さっぽろ)を結成するわけなんだけど、稽古場も劇場も持ってない創造集団なんだよ
清水
そうですね。創造集団作ってどうしてたんですか?創造集団って言ったって、構成メンバーは誰だったんですか?
歩
まずは常任演出家としてMODEの松本修さんとプロデューサーとして柴田英杞さんを東京から招いて…。俺はさ、嫌だったんだよね。ちょっと腰が引けてたと思う。だけど、MODEの松本修さんに会ってみたらすごく面白くて、契約アーティストっていう立場で、参加することになった。80年代後半から、90年代はじめにかけて「バブル経済」の崩壊とともに、北海道でも民間と行政が手を組んで、地域の舞台芸術活動の普及啓発や、人材育成が行われていった頃かな。
清水
歩さんは、東京でやることは考えてなかったんですか?
札幌を拠点とした演劇創作
歩
札幌で、どうやったら作品が創れるかを考えてた。東京に行く気はなかった。その方がいいと思ってた。95年の象徴的な出来事が、地下鉄サリン事件。その時に、東京っておっかないなって思ってたから。札幌に居ながら、松本修さんと仲良くなって、東京で俳優としての仕事が増えて行った。演劇財団に深く関わるようになったのが、扇谷記念スタジオ・シアターZOOを運営して、養成所ができてから。TPSをフランチャイズ劇団にしたのが、ちょうど2000年なんだよ。劇場作った時期と重なる。そこで初めて、TPSディレクターと名乗った。テントや倉庫で創ってた時みたいに、2カ月かけて、『冬のバイエル』って作品を創った。ここだったら、人とものを創れるって思った。必要なのは、そこにずっといて、そこをちゃんと見て、感じる人がいるってこと。

(TPS公演「冬のバイエル」(2000年)
清水
東京に拠点を移して活動するようになったのは、いつ頃ですか?
札幌と東京の往復
歩
2000年に、住所を完全に東京に移したんだよ。札幌の演劇人と作品を創って、毎月のように東京に発信するってことをやっていた時期。『逃げて行くもの』(2000年)で、文化庁芸術祭優秀賞を受賞してから、さらに活動が大きくなっていった。東京で、マスコミや映画の仕事をしながら、T P Sで毎年新作を創って、翌年ツアーに出かけたり、東京から串田和美さんを呼んでシアターキャンプをやったのもこの時期。1週間に何度も札幌と東京を往復してた。俺は、T P Sっていう劇団を、排他的にしたんだよね。札幌で芝居をやってる人たちって、アルバイトをしながら、無茶をしないっていうスタンスで芝居を創っていたんだけど、無茶をしないとついてこられないような劇団を、わざと札幌に作った。日常生活から引き離して、芝居に没頭しないと、俺が思う俳優という仕事ではないんだということを、若い人たちにも、若くない人たちにも課す。そんなことをやっていた。東京で得たものを、札幌に還元できているかっていうと、それはわからない。札幌で芝居をしている人たちから、どう見えていたんだろうね。清水が劇団を創ったのは、いつ?
清水
1997年です。北海学園大学の夜間に通っている最中でした。TEAM NACSの人たちが同じ大学にいて、一緒に作品を創ったりしたこともありました。彼らがどんどん人気者になっていって、公演をするごとに集客を増やしていくのを目の当たりにして、僕も演劇を仕事にして行けたらなと考えはじめていました。2002年に、演劇財団とほぼ同時期に設立した、北海道文化財団が主催する事業で、THE・ガジラの鐘下辰男さんの演出助手をさせてもらって、そこからプロになろうと決意しました。その後、文化財団の事業で桃園会の深津篤史さんと仕事をさせてもらえる機会をもらったり。だから、僕は文化財団に育ててもらったという思いがあります。その頃、歩さんが演出するTPS作品を、何本も観ています。
歩
どうだった。
清水
歩さんと話したこともなかったですし。札幌の中では、尖った集団だと感じていました。道内ツアーとか、東京公演とか、海外公演とかどんどんやっていて、手の届かないことをやっているなという印象でした。歩さんは、東京に住みながら、札幌の演劇とどのように関わっていたんですか?
TGR(Theater Go Round)札幌劇場祭
歩
札幌の演劇をどうしようかと考える中で、2005年に、シアターZ O Oが中心となって、札幌劇場祭の前身となる、演劇部門ステージラリーっていうのを始めたのね。何劇団かで、とにかくシアターZ O Oで毎日演劇をやろうっていう試みで。それがきっかけで、地域の演劇の裾野を広げ、支えていく仕組みとして劇場連絡会(2006年)を結成して、札幌市と協力して、TGR(Theater Go Round)札幌劇場祭が実現したんだわ。今でも毎年11月の1ヶ月間、札幌市内10劇場が参加して、若手の登竜門としての役割も担うイベントに成長した。シアターZOOができて、他にも劇場ができて。多分、劇場ってものが、それまでは作品を稽古したり、発表する場だったのが、劇場を中心として、街に働きかける手段に変わって行った時期だと思う。街への影響、波及効果みたいなものを考えながら、補助金を得て、フェスティバルを通じて、札幌市全体のことを考えていかなくちゃって考えていた。それが2000年からの10年だったんじゃないかな。
清水
札幌に戻ってくることを決めたきっかけは、何だったんですか?
演劇創造都市札幌プロジェクト
歩
公共と民間の協同によるプロ芸術集団が札幌という地方中核都市にあっていいのではないか、そんな考えのもと、文字通りの「演劇創造都市」に向けて、札幌の文化的価値・社会的価値・経済的な価値を高めながら、多様な価値観が受け入れられる地域をめざしたのが「演劇創造都市札幌プロジェクト」だったんだよ。それで、札幌のスケジュールを増やすことに決めた。TPSと呼んでいたものを、札幌座って名称に変えて、札幌の演劇人を巻き込まなくちゃならないって考えた。排他的に作品を創っていた頃に僕らが持っていた問題意識みたいなものを共有する形で、ものづくりをしなくちゃならないってことで、大きくシフトチェンジをした。それが2010年前後。清水たちに声をかけて、ディレクターとして北海道演劇財団に関わり始めてもらったのがこの時期なんだよ。

札幌座「ゴドーを待ちながら」(2018年)
札幌演劇シーズン
歩
TGRは、市内の劇場で、1ヶ月の間、週末だけでも色々な劇団が芝居をやっていますっていうものだった。でも、それだけじゃ、札幌の演劇は変わっていかないんじゃないかっていうことで、ロングラン公演をしようって考えて。2009年に演劇創造都市札幌プロジェクトを立ち上げて、2012年から始まったのが、札幌演劇シーズン。最初は、シアターZ O Oと琴似のコンカリーニョの2会場でやってたんだけど、何年か続けていくうちに、色々な劇場で、1週間ずつ、4〜5劇団が参加して行われるスタイルへと移行していった。僕が演劇シーズンのプログラムディレクターになったのが2020年。そしたらコロナになっちゃった。パンデミックが落ち着いたら、演劇の創り方、環境もがらっと変わっていた。札幌に戻ってきてからは、演劇を創る人たちの世代が完全に変わっていくのを感じていて、どういう状況だったのか、振り返ってみても、よく分からないんだよ。
若い人が増えていないしね。新しい策を講じなければならない時期なんだと思う。たぶん、企画した人と、札幌で演劇をやっている人たちの実感に、乖離があるんじゃないかな。お互いの議論が深まらないまま、今に至っているっていう状況に見える。今年度から、演劇シーズンのプログラムディレクターが、僕のひとまわり下の世代の小島達子さんに替わって、TEAM NACSのリーダー森崎博之くんの作品がラインナップに加わったりして。今まで、札幌の演劇に関心がなかった層が、こういうことをきっかけに、興味を持ってくれて、他の作品も観てもらえるような環境づくりができるといいのかな。

札幌座「亀、もしくは…。」(2016年)
清水
最近だと、札幌市民交流プラザが2018年に開館して、歩さんもオープニングシリーズで、「ゴドーを待ちながら」を創ったり、2024年にはジョブキタ北八劇場ができて、外から見ると、演劇がとても盛んに行われている街に見えると思います。
歩
もちろん、札幌の演劇は少しは進歩したと思うよ。札幌には、音楽や舞踏だけじゃなくて、演劇っていう文化があって、よその街とは違うものがあるってことをアピールできるんじゃないかと期待して、演劇創造都市札幌プロジェクトが立ち上がった。だけど、演劇が街の産業のひとつとして、この10年やそこらで位置づけられるほど、甘くはない。そこまでには至っていない。もっともっと時間をかけて、人を育てて行かなくちゃならないんだよ。いろいろな立場から、演劇に関わる人を増やして行かなくちゃならない。清水は清水で、これまでの流れを踏襲しつつ、おもしろいと考えることをやればいいんだよ。そうすることで、少しずつ北海道の演劇が育っていけばいいと思う。

札幌座「民衆の敵」(2024年)


